【連載】「韓国の発酵技×日本の旬」が光るガストロノミックなキムチ
第3回 京都「INA KIMUCHI(イナ キムチ)」
2026.04.06
text by Sawako Kimijima / photographs by INA KIMCHI
日本の漬物生産量のトップシェアを誇るのはキムチである。梅干しでも沢庵でも白菜漬でもなく、キムチだ。それほどまでにキムチは日本の食卓に浸透した。
しかし、本場・韓国の人から見ると、日本のキムチには「?」が付される部分もあるらしい。
イ・ゼランさんは「なぜ、日本では適切に発酵したキムチを買うのがむずかしいのか?」という問いから、「INA KIMCHI」を立ち上げた。スペインの三ツ星レストランや老舗京料理店で働き、世界のトップシェフがリスペクトする韓国の味の名手に学んだ経験から作るガストロノミックなキムチだ。その根幹には、彼が考える「食とは何か?」が詰まっている。
目次
- ■料理人になった理由とやめた理由
- ■日本で市販されるキムチへの疑問
- ■世界がリスペクトする尼僧の教えとファンキーな味
- ■韓国の発酵技術と日本の旬。2軸を掛け合わせる
- ■韓国の地方に眠る郷土の味を発掘して届けたい
今回の主役はイ・ゼランさん。1991年生まれ、韓国・釜山出身。京都大学経済学部卒。スペイン・サンセバスチャンの三ツ星「AKELARRE アケラレ」で約1年、「たん熊北店 京都本店」で約1年修業。その後、コンクリート診断士の資格を取得して、土木エンジニアとして働く。2024年、奈良県宇陀市に中村侑矢さん(「RED U-35 2024」準グランプリ)と共に「INA」をオープン。中村さんはレストランを、イさんは「INA KIMCHI」ブランドでキムチをはじめとする発酵食品の製造・販売を担う。2026年春、中村さんの東京「MAZ」ヘッドシェフ就任に伴い、レストランはクローズ。「INA KIMCHI」は継続し、自らを「韓国の美と味」を届けるディレクターと位置付けて、取り組みの充実を計画中。
料理人になった理由とやめた理由
料理の世界に足を踏み入れたきっかけは、スペイン料理店でのアルバイトだった。京大2回生の時である。
「なんとなく懐かしい味やなと思った。ニンニクや唐辛子を多用して、韓国料理と似たところがあるな、と」
スペイン料理に興味を持ち、学業を終えた後、サンセバスチャンの三ツ星レストラン「AKELARRE アケラレ」の厨房に1年間入る。京都に戻る直前1カ月はスペイン全土の食の様相を見て歩いた。
大学を卒業すると、今度は日本料理アカデミーと京都市による外国人料理人受け入れ制度で「たん熊北店 京都本店」へ。
しかし、1年でやめた。
「良い食事は、本や音楽と同じく、様々な感情を呼び起こします。驚き、ときめき、懐かしさ、楽しさ・・・・・その積み重ねが人生を豊かにする。楽器を演奏すると音楽に深くコミットできるように、料理することで感情はより深くなる。なぜ、この食材? どうすれば、この風味が出る? 好奇心を解決する過程で感情は鮮明になり、達成感や自由すら得られる」
そのための技術を得ようと料理界へ入ったわけだが、プロの現場では知識や技術が身についても、皮肉なことに自分や大切な人のために料理する余裕がなく、豊かさから遠ざかるばかり。「あれ、何のために料理をやっているんだっけ?」との思いが募り、シェフへの道から降りたのだった。
6年後、ゼランさんは料理界に戻る。土木エンジニアとして働いていた会社の社長から、奈良県宇陀市にある古民家の飲食店活用を託されたのがきっかけである。
「再び食を仕事にするなら、料理人としてではなく、時間や空間に縛られずに人々が食を通して豊かに過ごす手助けをしたい。食のディレクターのような・・・・・」。発酵への興味を足掛かりに取り組んだのがキムチだった。
日本で市販されるキムチへの疑問
京大留学のために来日して以来、ゼランさんは、日本の市販のキムチに疑問を抱き続けていたという。これは発酵による味というより調味料の味ではないか? なぜ、こんなに調味が濃いのか?
韓国では一家に一台、キムチ冷蔵庫(温度や湿度の調整など、キムチの保存・熟成に特化した機能を持つ)があるという。
「キムチの醍醐味は発酵にある。韓国人は市販のキムチも発酵の浅いのから深いのまで経過を楽しんだり、自分好みの味に育てて食べる。作る側も発酵による味の変化――旨味や甘味が増し、熟成と共に爽やかな酸味が生まれ、深みや奥行きを増す――を前提とする。だから、最初からあまり強く調味せず、たとえ強く調味する場合でも、発酵による酸味や旨味が入る“余白”を残します」
対して、日本の市販のキムチには、乳酸発酵による旨味や酸味に似せてカツオエキスや酢を入れるなど、発酵を前提としていないかのような調味が見受けられた。これでは野菜の和えものではないか? 「すばらしい漬物文化を持つ日本なのに不思議でした」
とはいえ、キムチ冷蔵庫のない日本では仕方がないのかもしれない・・・・・。ならば、日本の環境で実現可能なキムチ本来の味わいを提供しよう。発酵食品としてのキムチのおいしさを日本の人々に伝えよう。
それが「INA KIMCHI」のスタートだった。
世界がリスペクトする尼僧の教えとファンキーな味
INA KIMCHIを立ち上げるにあたって、ゼランさんは韓国の発酵の知恵と技を学ぼうと、2人の人物の扉を叩く。
1人は、600年代に創建された古刹・白羊寺のチョン・グァン・スンニ(僧侶)。Netflix「Chef’s Table」シーズン3(2017年)に登場以来、「瞑想の料理」と称する精進料理を求めて世界のトップシェフが会いに来る尼僧。もう1人は、平昌を拠点とするキムチ名人パク・グァンヒさん。ソウルの三ツ星「Migles」やNorth America’s 50 Best Restaurants 2025で1位に選出されたNY「Atomix」などガストロノミーシェフにとってのキムチの師である。
「白羊寺では、スンニとの暮らしの中に学びがありました。朝起きたら山へ行って山菜を採り、朝食にお粥を作る。山では『この山菜にはこういう効用がある』『体が熱い時にはこれを食べると良い』『風邪をひいたら、これとこれを混ぜて食べなさい』などと話してくれた」
精進料理とは、修行者が健康に修行を続け、悟りに至るための食事である。薬食同源に基づき、季節の食材のエネルギーを見極め、食べる人の体調に合わせて調理する。「スンニがおっしゃっていたのは、『この食材がどこから来たのか、なぜ、これを食べるのかを考えなさい』ということでした。私はその教えを完全に理解するには未熟ですが、自然との向き合い方や生き方そのものが食の本質ではないかと感じました」
寺では、カンジャン(醤油)やテンジャン(味噌)を仕込むのはもちろん、五味子を発酵させたり、チョン(山菜や野草を砂糖やハチミツの中で発酵させる伝統的なシロップ)を作るなど、身の回りにあるものを様々に使いこなす暮らしが続けられている。
ゼランさんが驚いたのは、スンニの作る味だったという。
「ファンキーなんです。韓国料理とも思えないくらい。何十年も保存されてきた醤油を加えたり、発酵させた五味子を使ったりするせいでしょうか。スンニにとっては、それが必然なんですね。お寺でこんなファンキーな味と出会うなんて思ってもみなかったので、めちゃくちゃびっくりしました」
シェフを目指して三ツ星や老舗で働いていた頃は、「風味の組み合わせの面白さが、いろんな感情を呼び起こす。それが多い方が人生は豊かになる」と思っていた。そこにシェフたちのクリエイティビティがある、と。
「それ以前のことなんです。スンニは、自然がただそこにあるから、そうしている。何かを狙ってやっているわけではない。スンニが生み出すのは、自然を知って、なぜ、それを摂取するのかを考えたら、自ずとたどり着いた味。でも、それはファインダイニングの料理と同じくらいクリエイティブだと思う。だから、世界のトップシェフも学びに来るのでしょう」
韓国の発酵技術と日本の旬。2軸を掛け合わせる
もう一人の人物、キムチ名人のパク・グァンヒさん。ゼランさんが「キムチの師匠」と呼ぶ彼女のもとでは、2人きりのマン・ツー・マンレッスンが朝から深夜まで連日続き、「それまで抱いていた多くの疑問が解消された」と言う。季節と共に作るキムチは変わる。だから、一年に何度も師匠を訪ねた。「今ではもうキムチを学びに行くというより、実家に戻るような感覚。料理もおいしくて、キムチチゲはため息が出るほど。師匠の料理を目当てに訪ねていると言ってもいい(笑)。チムチチゲの作り方も教えていただいています」
「私のキムチの基礎、たとえば、食材ごとの塩漬けの基準、ヤンニョム(合わせ調味料)の配合の考え方、塗り込む量の計算などは、師匠の教えをベースとしています」
加えて、独自のリサーチによる韓国各地のキムチの伝統的な作り方や論文を参考にしつつ、自分の味覚、日本の野菜の特徴を反映させる。塩や塩辛、唐辛子といったアイデンティティとなる素材は韓国の職人による最高級品を使い、そこに日本の旬の食材を合わせる。韓国の発酵の技と日本の旬、2軸を掛け合わせところにINA KIMCHIはある。
韓国の地方に眠る郷土の味を発掘して届けたい
INA KIMCHIがスタートして2年弱。購入者のリピート率が70%と、ゼランさんは「顧客との距離が近い」と感じている。「『韓国にはよく行くけれど、INA KIMCHIの味は向こうで買うキムチとも違う』と指摘するお客さん、『コチュジャンは作らないの?』『マッコリは造らないの?』と尋ねてくるお客さん、『韓国で飲んだこのお酒がおいしかったから輸入して』とリクエストするお客さん。僕を入口にして韓国の美味を体験しようという意欲にあふれた人たちばかり」
勉強が大好きで、知ることが好き。「勉強すればするほど、自分がいかに何も知らないかを痛感する」と吐露するゼランさんは、顧客の熱いニーズを感じ取っていっそう、母国に頻繁に赴いて地方に眠る郷土の味を発掘し、日本の人々と共有したいと考える。「キムチひとつとっても、何の魚醤を使うのか、どんなアミエビを使うのか、貧しい土地柄では質素なヤンニョム、豊かな土地では贅沢なヤンニョム、地方によって様々に違うから、何百種類にものぼるんですよ。キムチ百科事典は分厚いです」
INA KIMCHIのサイトを立ち上げると、 “Weaving Days With Discovery”の文字が目に飛び込んでくる。「発見と共に日々を編む」とはまさにゼランさんの生き方そのもの。そして、それは彼がお客さんに提供したいことでもある。
「僕はお客さんに料理してほしい。食は様々な感情を呼び起こし、発見をもたらす。それは人生を豊かにする。料理することでその感情は鮮明になり、人生はもっと豊かになる。だから、僕はキムチと一緒に、お客さんが料理したくなるモチベーションを届けたい」
そのためにも、韓国の郷土の味の掘り起こしに取り組みたい。各地を巡って、伝統酒や醤を厳選して、日本に紹介すると同時に、それらに合う料理の研究や提案も行っていきたい。「僕の役割は、INA KIMCHIというブランドを通じて、日本の日常の中で“韓国の美と味”を発見してもらうディレクションと考えています」
世界のキムチ市場は4.5億米ドル(2024年)、10年後には6.5億米ドルまで成長するだろうと、米国の市場調査会社Global Market Insightsはレポートしている。発酵食品のキムチには腸の働きをサポートするプロバイオティクス(善玉菌)が多く含まれ、カルシウムや鉄などのミネラル、ビタミンA・B・Cに優れながらも低カロリー。添加物不使用で長く保存できて、動物性食材を使わなければヴィーガンにも対応する。市場のグローバル化は、キムチが健康にも環境にもメリットの高い食品であることを世界中が歓迎している証だ。
キムチは未来を明るくする。INA KIMCHIの未来もきっと明るいに違いない。
◎INA KIMCHI
inakimchi.com
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